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Dick Grove School of Music の思い出1
| 故Dick Grove氏は70年代から90年代にロスエンジェルスを中心に活躍した有名な作編曲家で数多くのテレビ番組に音楽を担当したことで知られています。その氏が80年代の前半に創立したのが若い作編曲家が更に腕を磨くための音楽学校です。厳しいプロの世界で生き抜くために普通の音大の4年間のカリキュラムを一年に短縮した壮絶な学校です。作編曲課に入学する学生の3分の1くらいしか卒業出来ない事実を見ればその厳しさが想像できます。月曜から金曜まではいろいろな科目でびっしり詰まっています。和声学、対位法、聴音、オーケストレーション、映画音楽、指揮、編曲法、モダンハーモニー、コマーシャルスポット作曲等すべての分野をカバーし、ほとんどあらゆるスタイルの音楽を勉強出来るようにプログラムが組まれています。またそれぞれの授業で宿題も出されれ、それだけでも夜相当な時間を費やして勉強したものです。メインの宿題は毎週テーマの違う作曲又は編曲です。それを毎週月曜日に録音スタジオでプロの音楽家達の演奏でテープに録り、クラスで先生の指導の下ディスカッションがあります。指導陣は地元ハリウッドの映画音楽界で活躍する著名な人たちが名を連ねていてこれぞ豪華版といった感じです。 |
しかしこの学校の一番の特徴は宿題の作編曲の録音をプロの音楽家を使ってやる点です。これは費用がかさみ世界のどの学校も出来ないものです。そのため学校は経済的にはいつも困窮していましたが、校長のDick Grove氏の信念に基づきこの方針は最後まで貫かれました。多い時には40人以上もの大きなオーケストラを使用するのですからその費用は大変なものだったと思います。氏をはじめ指導陣全員の音楽教育への情熱と誇りを持ってして成し遂げられたと、今は感謝の気持ちでいっぱいです。 世界中から集まった学生はそれこそ昼夜を問わず勉強に追いやられていました。私は夜の8時に就寝、夜中の12時起床、朝まで音楽を書くというリズムを守り続けて頑張りました。学校は朝から夕方までびっしりあり本当に鍛えられたという感じです。私は毎日4時間眠りましたが他の人たちは録音のある前の2,3日は殆ど眠る時間はなく録音中、指揮をしながら居眠りをするという珍事も何回か起こったものです。
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Dick Grove School of Music の思い出2
| 中でも映画音楽クラスのジョナサン・グリーンは仕事がのろく録音の朝でもいつもパート譜をまだ仕上げていません。スコアーから各楽器パートを自分で書かねばなりません。これは最後の最も苦痛とする仕事です。アイデアを練ってスケッチしてスコアーを書き上げるまでは創作作業で厳しいですが喜びもある工程です。しかしパート譜を手書きで写すのは慣れない人にとってはほんとうにやっかいなものです。ジョナサン・グリーンは以後ロス、ハリウッドのプロの厳しい競争社会を生き抜いて成功している数少ない作曲家ですが、自然でいつも明るく素晴らしい性格をしています。私が今まで会った数多いアメリカ人の中でも最も好きな人物の一人です。その彼には毎週パート譜を書く手伝いをしてやりました。 |
それが縁で友情は今も続いています。何人か忘れることの出来ない人がいますが、中でもシンガポールからやって来たジェレミー・ルーも未だに連絡を取り合っているクラスメイトでした。彼はピアニストで管楽器についての知識が余りなく時々管楽器のパートをスコアーに書いてやりました。いつも夜中の3時ごろやって来て、「もうアイデアが尽きた。このブラスのパート書いてよ」と言います。「もうアイデアが尽きた」が彼のいつものセリフです。一番最高だったのは卒業式の後です。やっと終わったという開放感で今日は友達連と一緒においしいものを食べに行こうと思っていた矢先、そのジェレミーが青白い顔をして力なくやって来ました。
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Dick Grove School of Music の思い出3
| もう精も根も尽き果てたと、しおれた花のように頭をうなだれてぼそぼそと話し始めました。「ひとつコマーシャル音楽のスコアーを提出してないんで卒業証書がもらえないんだよ、もう半年やる気力も体力もないし、それにお金もないよ。なんとか助けてくれ、お願いだよ」今にも泣き出しそうな顔で懇願するのです。「もう一音たりとも書くアイデアも気力もないよ、助けてくれ」ということは私に何か書いてくれということです。楽しみにしていた夜の食事がおじゃんになるのは構わないのですが、果たしてここで何か書いてやることが本当に彼のためになるのか迷いました。それとこれは不正であり恩を受けた先生方への裏切りのように取られても仕方ありません。しかし彼を奈落の底に落とすことはやはり出来ません。「しょうがないなあ、じゃすぐ書こうよ」スケッチもなしでいきなりスコアーに書いていくというラフなものですがこの際悠長なことは言っておれません。ピアノで音を確認する時間もありません。頭に浮かんだものをハミングして「これでどうかね」と彼に訊ねながらどんどん書いていきました。14人編成のバンドで楽器数は多いのですが、曲は1分半ほどと制限されているので2時間くらいで何とか書き上げました。彼は嬉し涙を浮かべながら両手を突き上げて「やったあー」と小さく搾り出すように叫びました。「この恩は一生忘れないよ」と涙声でか細く言った情景が今でも忘れられません。その後二人だけで近くの | タイレストランへ行って最後の祝杯をあげました。 20年近くも経った今でも時々国際電話を入れてきていつも「あの時は本当にありがとう」と言います。次の日の朝その偽スコアーを提出して無事卒業証書をもらうことが出来、故郷のシンガポールに帰って行きました。私の方が先に帰国したのですが、空港まで来てくれて別れ際にはぽろぽろ涙を流して「ありがとう、本当にいろいろありがとう」と私を送ってくれました。彼はいつも私のところに何か質問しに来たり書き上げたスコアーのチェック来ていて学校が終わってからも殆ど毎日私のところに来ていました。本当に仲良くやったクラスメイトでした。この話には面白い後日談があります。彼が最後のスコアーを提出した2日後に私はその担当の先生と一緒に日本レストランへ行く約束をしていたのです。食べながらいろいろな話をして楽しい時間を過ごしましたが帰り際、「あのジェレミーね、スコアー持って来たから単位やったよ」と言うのです。私はとぼけて、「ああ、それは良かったですね」と言いましたが、彼はニコッとして「あれはね、お前が書いてやったんだろう」と言うのです。さすがは先生、やはり見抜く力はあったんですね。二人で高らかに笑いながらレストランを出ました。
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