用務員

 

ミュンヘン到着1

ドイツのミュンヘンにロンドンから移ったのは1976年の1月12日でした。当時のドイツ経済の躍進は目覚しく国民の生活も大変に潤っていました。音楽の世界でもドイツで一旗挙げたいという音楽家達が世界中からなだれ込んでいた時代です。私といえば、そんなことはまるで知らない世間知らずでしたが、ロンドンの演奏仲間のみんなが、行くのならドイツだと口を揃えて言うのでぶらりとミュンヘンに行きました。これという知った人間がいた訳ではないのですが、1972年のミュンヘン・オリンピック以来何やらぼんやりと親しみがあったのでミュンヘンを次の生活の場に決めました。

荷物が多く飛行機では飛べないために汽車で行くことにしました。昼でも薄暗いビクトリア駅を確か午後の1時頃出発したと思います。船でベルギーのオステンドまで行きそれから又汽車で延々と南ドイツのミュンヘンまで夜通し走ります。誰も知らない西も東も分からない、言葉も話せないところで明日からどうやって仕事を探そうかと思うと少し不安でしたが、今思案してもミュンヘンに着くまではどうすることも出来ないと思うとかえって気が楽になり、その旅を楽しむことが出来ました。列車の中ではぶらぶらして何人かの人たちと楽しく話をしました。今思えば自分はなんと気楽な性格をしているのだろうと半分あきれるくらいです。

 

7時ごろアナウンスがあり、もう2時間少々でミュンヘンに到着とのこと。その日からの生活がだんだんと現実味を帯びて来ました。遠くに1972年のオリンピックの時に建てられたオリンピックタワーが見え隠れするようになりました。それが何すら知らなかった私ですが。その時話をしていたユーゴスラビアの青年が指差して教えてくれました。彼はロンドンの大学での4年間の勉学を終え故郷のユーゴスラビアに帰る途中とのことでした。彼は日本人の私に「日本人はアメリカに原爆を落とされて怒りを感じないのか」と迫って来ました。アメリカから入った野球をやりながら育ちその後にはまたもやアメリカで生まれたジャズに夢中になった私には答えようがありませんでした。アメリカのものなら何でもいいという時代に育った世代です。今思えば少し悔しいですが。アメリカナイズに躍起になっていた当時の日本が、そして自分が。

ミュンヘン到着目前にそのユーゴスラビアの青年とがっちり握手をしてお互いの幸運を祈りながら別れを告げました。ほんの短い時間の出会いでしたが古い友達のように打ち解けて将来の夢を語り合ったことは青春時代の素晴らしい思い出のひとつです。その後起こったユーゴスラビアの戦争のことを思えば彼の身を案じて暗い気持ちになります。

 

ミュンヘン到着2

9時少し過ぎに列車はミュンヘンの中央駅に着きました。ヨーロッパの大きな駅は殆どドーム式の突き当たり方式です。次に発車する時は最後部に機関車を連結し次の駅目指して走ります。 1976年当時は今のような明るい感じの駅ではなく薄暗く重い感じで寂しさを余計につのります。おまけにその寒いこと。ミュンヘンは大陸気候で冬は零下20度位まで下がります。その時のミュンヘンも丁度寒い頃で外に出ると頭が割れるような感じでした。暖かい岡山育ちの私には生まれて初めて経験する寒さです。それに誰も知らない初めての場所での孤独感が寒さを増幅します。気が滅入ってしまいそうですが、負けてはだめなので、屋台のようなスタンドで売っているビールを飲んで先ずは景気付をしようと思いました。朝からビールを飲んだのはこれが最初で最後です。見るとおいしそうな暖かいソーセージも売っています。試してみようと思ったのですが、はたしてどう言って注文していいのやら躊躇してしまいました。少し待って他の人たちが注文するのを聴いて真似をしようと耳をとがらせました。なにやらウインナーソーセージのウインナーという単語を言っているように聞こえます。ビールは英語と同じビアーと発音しているみたいです。それでその二つの単語をなんとなく並べてむにゃむにゃとソーセージを指差しながら注文しました。希望通りの2品がちゃんと目の前に来て何だか嬉しくなりましたが、言われた値段はさっぱり分かりませんでした。まあ、足りるだろうと思う札を一枚出すといくらかおつりが来ました。そのビールとソーセージのおいしかったこと、今でもその味が舌に残っているような感触があります。 景気付けも終わり先ずは疲れた体を横にするホテルを探さねばなりません。大概の駅には旅行者用にホテル案内の掲示板があります。料金、住所電話番号、写真等が載っていてドイツ語が出来なくても何とか理解は出来ます。今回は最初にロンドンに行った時よりは慎重にお金を使わねばと思い、出来る限り安いホテルを探しました、幸い駅からそんなに遠くないSchwantalerシュヴァンターラー通りの奥に安い宿を見つけました。その名前は今ではもう思い出せませんが通りの名前はなぜか未だに記憶に残っています。その安宿があった建物は取り壊されて今は近代的なものが建っています。ぎしぎしと音のする螺旋階段を上がって行くと簡単なレセプションがあるのですが、その受付で働いている人はドイツ語のみで英語も全く話さない、ホテルマンとしてはおかしな男でした。あちらはドイツ語こっちは英語で何とか通じたようでした。レセプションの斜め向かいには小さなバーがあり、得体のしれない女が二人いたのが奇妙に記憶に残っています。

部屋に入って暖かいベッドに入った時の安堵感は何とも言えないものでした。これからの生活のことなどすべて忘れて眠りに入りました。

 

 

ミュンヘンでのすたーと1

翌日からいよいよ仕事探しです。と言ってもどこに何があるのやら見当も付きません。あれこれ思案して思いついたのがジャズクラブを探してそのあたりの線から探って行ってみようかということです。大きな通りで若い人に声をかけて英語で「すみません、このあたりにジャズクラブはあるでしょうか」と片っ端から尋ねてみました。ある気持ちの良さそうな青年がひとつのクラブの所在を教えてくれました。地下鉄の何線に乗ってどこで降りて何という通りで、と丁寧に教えてくれました。忘れてはいけないとそれをお経のように唱えながら何とかその駅まで行って外に出る事が出来ましたが、何しろ冬で早く日が暮れるので外はもう真っ暗です。通りの名前を書いたものがあっても暗くて読めるはずもありません。仕方なく又誰かに尋ねました。うろうろしていてとんでもない方向に歩いて行ってしまっていたようです。最初に尋ねた中年の男性が又丁寧にその通りまで行く道順を教えてくれました。やっとその目的とする通り、Herzogstrasse ヘルツォーク通りにたどり着きました。その薄暗い通りをとにかく歩いて行きました。10分も歩かないうちに十字路の斜め向かいにそれらしき看板が見えました。今はもうなくなっていますが当時は繁盛していた大きなジャズクラブ「Jazz Stuebe」ジャズシュトゥーベというクラブです。ドアを開けて入ったところに小さな机があり、誰かが座って入場料を取っていました。いくらか忘れましたが料金を払って奥に進むとたくさんのテーブルや椅子が所狭しと置いてありもう殆ど満 員の状態でみんな大きなジョッキでビールを飲んでいるではないですか。さすがはミュンヘンと思いながら空いた席を見つけようと場内を見渡すと中ほどに2,3の空いた椅子があったので周りの人たちにハローと挨拶をして座りました。ジャズクラブにしては大きなステージで小編成のバンドがビバップ系統の音楽を演奏している最中でした。すぐに女の子が注文を取りに来たのでビールを頼み、ビールが来ると回りの人たちがみんなジョッキを上げて僕に向かって「Prost」「乾杯」と叫んだのには驚きました。もちろんドイツ語で「Prost」と言われても分かるわけはありません。ただ想像しただけです。僕が英語で「Cheers」と言うと連中も英語で返して来ました。当時は日本人も余りたくさんいない頃で珍しかったのでしょう、みんなわれを先にとドイツ語訛りの英語でいろいろ質問を浴びせて来ました。僕が日本から来たこと、しかしこの一年ほどはロンドンで演奏していたと言うと誰かが、「毎週月曜日の夜にアメリカ人のリーダーがビッグバンドを率いて出演しているよ」と教えてくれました。これは闇に光が差したような朗報でした。ビッグバンドなら人数も多いし運が良ければ飛び入りさせてもらえるかも知れません。次の月曜日が待ち遠しい気持ちでもう少し演奏を聴いてからホテルに帰りました。

 

ミュンヘンでのスタート2

そのクラブに初めて行ったのが金曜日で月曜日まで長く待ったような記憶がありますが確かではありません。一番困ったのは練習場所です。トランペットは音が大きいのでどこででも練習出来るものではありません。ミュートといってラッパの先に付ける弱音器があるのですがそれでもホテルでやるには気が引けます。しょうがないのでどこかだだっ広い公園かどこかでやる以外に手はありません。幸いミュンヘンには広い公園があり場所的には良かったのですが、何しろその寒いこと、その頃は丁度日中でも零下5度、10度という寒い時で20分もするともう立っていられない感じです。仕方なくホテルに帰ってラッパの先にミュートを付けてその上にタオルを巻いて少し練習しました。最近は練習用にいいミュートも販売されていて昔のような苦労はないと思います。さて、いよいよその月曜日が来てそのクラブに出かけることにしました。丁度霧のような小雨が降っていてその日は寒い冬にぽっかり穴が開いたように少し暖かい日でした。ミュンヘンをご存知の方なら懐かしいと思われますが、あの有名な時計台のあるマリアンヌ・プラッツでオリンピック村行きの地下鉄に乗り4つ目の駅ミュンヘナー・フライハイトで降りるとミュンヘンの歓楽街シュヴァービングの一角に出ます。そこからそのジャズクラブ「Jazz Stuebe」ジャズシュトゥーベを目指して薄暗いヘルツォーク通りを小雨に濡れながらソフトケースに入ったトランペットを小脇に抱えて足早に歩きました。その途中何を考えたか、またどうやって入って行ったかとか今では思い出せません、記憶にあるのはバンドが最初のセットを終わって休憩に入ったところからです。アメリカ人のジョージ・モリスンが率いるフル編成のビッグバンドは素晴らしいスイングのアレンジを力強く演奏していました。体中の血が騒ぐような感覚を覚えさせるプレイです。みんながスタンドから降りる時バンドリーダーのジョージ・モリスンがどこに行くか目で追っていました。彼は楽屋へは行かず客席の知り合いのところへ行って話しを始めました。すかさずその方向へ歩いて行って「ハロー、はじめまして。あなたがバンドリーダーのジョージ・モリスンさんですか?僕は日本から来たDaiといいますが、僕もトランペットをちょっと吹きます」と挨拶すると、私のことを学生と見たのか「ああ、そう、それはいいね」と軽くあしらわれました。 そこで「日本で何年かプロでやって、それからこの一年くらいはロンドンのトニー・エバンスのバンドで仕事をしていました、つい最近ミュンヘンに来たところです。ところで次のセット一緒に吹かせて貰えませんか」と突っ込んで行きました。すると「いやー、だめだよ」とそっけない返事が返って来ました。われわれプロの世界ではこういうリラックスした演奏の場ではバンドを訪れるミュージシャンはたいてい歓迎してステージへ上げるものですが、私はまだ26歳で、それも欧米人には17,8歳くらいに見えたのでとてもこの若造が吹けるものではないと、とられたものと思われます。それにバンドの誰をも知らない訳ですから。彼は他の知り合いと話をしていたし、余り邪魔も出来ないと思い、その場は「ありがとう」と一言、引き下がりました。しかしこちらには明日からの生活がかかっています。おめおめと退いては生きて行く事が出来ません。次の休憩にまた彼のところへ行って「頼みます、楽譜は初見で何でも読めるんです」ともう一度頼みました。彼は困惑した表情を浮かべながら「うーん、しょうがないなー、じゃ、次のセット、ステージに上がれよ」とついに言ってくれました。そして周りを見渡し、近くにいた一人のトランペット奏者を見つけて、こちらへ来るよう手で合図しました。大きなめがねをかけた人懐っこい感じの大体同年代くらいとおもわれる茶色の髪をした若者がスマイルしながらやって来ました。ジョージ・モリスンは彼に「ボブ、この坊やは日本から来たトランペット吹きで次のセットどうしてもやりたいと言うんで、すまないがお前休んでこの子にやらせてくれるか」と訊ねました。その好青年は気軽にうなずいて「初めまして、ボブといいます。イギリスから来てミュンヘンに住んでいます。どうぞ次のセット休みますから気軽に吹いて下さい」と丁寧に挨拶してきました。私にはただ「ありがとう」の一言しか言えませんでした。いよいよミュンヘンでのスタートが切れると楽屋へ入って軽いウォームアップを始めました。